今回は、『精神病者の魂への道』(シュヴィング著)に見る「こころ」の5回目です。
(引用元は G.シュヴィング著 小川信男・船渡川佐知子共訳 (1966) 精神病者の魂への道 みすず書房 です。)
よろしくお願いいたします。
P16 「関係性はいかにして確立されるか」 より
症例ベッティ 三十歳 精神分裂病〔註:統合失調症〕
〔註:ベッティからシュヴィングへ宛てた手紙〕
「やさしい看護婦さん! あなたにお目にかかれてとてもうれしい。私は本当に心が静まり安まります。またいらしてください。けれどお話し合いを期待しないで。ただ私を慰めてください。それは本当に美しい。」
ベッティは、幼少期から「いつも他の人との接触がありません」と母が回顧して述べる方だったようです。
2回目の統合失調症の増悪エピソード(特に統合失調症の場合は、これをシュープと言ったりします)で、彼女は「怖ろしい興奮と狂暴の発作」ののちに、「完全な沈黙」「深い沈潜」となり、入院していました。
そんなベッティに、シュヴィングはそっと近づき、やさしく話しかけます。
二人が「多くを語り合うことなしにお互いを理解し合えた」のち、シュヴィングが帰ろうとしたとき、ベッティは手紙を差し出します・・・。
統合失調症の急性期症状の1つに、「世界没落体験」というものがあります。
これは、「世界(外界)に何か究極的、破滅的な事象が起こり、この世が崩壊していく(=没落)ような恐怖」を指します。
なかなか想像しにくいですが、逆に言えば文字通り”想像を絶する”恐怖に、統合失調症の方は襲われます。
それは、”言葉にするのも怖ろしい”体験でありましょう。
そうなると、「完全な沈黙」とすることで、自身を外界から隔離=「深い沈潜」し、自己を守ろうとしても、不思議ではないと思います。
そのようなときに、周囲はどのように接すればよいのでしょうか。
まずは、前項でも話した、”そこにいる”ことでしょう。
究極の恐怖状態と、「世界に自分しかいない」という孤独感は非常に近縁性があります。
せめて、「自分は一人孤独ではない、隣にいてくれる人がいる」と思っていただくことは重要です。
そして、ただひたすらに相手に無条件に関心を持ち続けることです。
これは、以前にお話した来談者中心療法を提唱したカール・ロジャーズも述べている、カウンセリングの3条件の1つでもあります。
ヒトという生物に、社会性は必要不可欠です。
自身が、隣人に関心を向けられる存在であると認識、感じられることで、人は自己の存在を確かめられます。
これらはエンパワーメントが仕事である対人援助職において、根幹となります。
以上から発展して、「お話し合い」と「慰め」をみてみたいと思います。
このテーマもなかなか多層的で、いくつも語るポイントがありますが、特に今回はベッティの想いに沿いながら考えてみましょう。
ベッティが述べている「お話し合い」とは、何を指しているでしょうか。
もしかしたら、ベッティはこれまで何度も「お話し合い」を求められたのかもしれません。
それは、言葉による”説明”、”説得”、あるいは”命令”、そして”暴言”であったりしたかもしれません。
「お話し合い」を求めた人たちが、どういう思いで彼女に接していたかはわかりません。
全員が悪意というわけではなかったでしょう、きっと善意で接していた人たちもいたと思います。
ただ、”命令”や”暴言”はもちろん、”説明”や”説得”であったとしても、上記の通り彼女が体験している”言葉にするのも怖ろしい”ものを言語化すること自体苦痛である上、自身を変えようとする周囲の意図が見え隠れするとき、そこに安らぎを感じることは難しいでしょう。
彼女が最も欲していた「慰め」は、もっと純粋無垢な想いであり、彼女を”あるがまま”受け入れようとするこころではないでしょうか。
これは、突き詰めていくと、対人援助というあくまで俗世的なレベルを超えて、キリスト教の隣人愛などにもつながる発想となるので、なかなか難しいところはありますが、それだけ真に成されたとき「本当に美しい」ものでありましょう。
(次回に続きます)