こころのペリカン便り

Column

【心療内科/精神科名著紹介】 『精神病者の魂への道』(シュヴィング著)に見る「こころ」 #9  ~治療者の態度:同行二人~

今回は、『精神病者の魂への道』(シュヴィング著)に見る「こころ」の9回目です。

 

 

(引用元は G.シュヴィング著 小川信男・船渡川佐知子共訳 (1966) 精神病者の魂への道 みすず書房 です。)

 

よろしくお願いいたします。

 

 

 

P27/P17 「関係性はいかにして確立されるか」 より

 

P27

訳者注。〔註:日本語訳者による注〕

シュヴィング夫人が患者さんと語り合う場合、Wir(私たち)の語を特殊な意図をもって用いた

 

P17

「私たち(uns)」とか「私たちは(Wir)」とかいう言葉の中に私は意図して病者と私自身とをひっくるめた。病める人間としての彼女と健康な人間としての私とのあいだに垣根をつくらないために、お互いの人間的な連帯性を強調することは、直接援助の手を差しのべる前に、必要なことであった。

 

 

患者さんにとって、治療者はどういう存在であるべきでしょうか。

 

私が医学生の頃、「パターナリズムからの脱却」という授業を受けたのを今でも覚えています。

パターナリズム(paternalism)は父権主義などと訳され、「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援すること」と意味します。(Wikipedia パターナリズム の項目より)

特に医療の世界では「治療方針等を医師が一方的に決めること」を指し、かつての悪しき医師の態度を述べる際に用いられます。

例えば、ある患者さんに胃癌が発見された場合、現在では告知されるのは当然のこととされていますが、一昔前までは「患者さんにとってショックなことは、伝えるべきではない」という考えのもと、告知されないことはよくありました。

昔は胃癌の治療率も現在より悪く、「胃癌=死」というイメージがあったため、告知しないのは医師側の患者さんを思う気持ちからではあったのですが、患者さんの知る権利を重視していないという批判は免れない行動でありました。

そのようなパターナリズムは脱却し、患者さんに治療者が協力して、病に立ち向かうべきであると授業で習ったのでした。

 

精神科では、これから一歩進み、SDMという考え方があります。

当HPの「当院の治療姿勢」から引用しますが、Shared Decision Making(SDM)は、共同意思決定と訳され、「患者さんと医師が、価値(Value)、優先順位(Priority)、目標(Goal)、治療の嗜好性(Preference)、責任(Responsibility)を話し合い、共同して(Shared)治療方針を組み立てる(Decision Making)こと」を指します。

患者さんの「こころ」に触れる心療内科、精神科では、その背後にある人生にも関わるため、患者さんお一人お一人が何に価値(Value)、優先順位(Priority)を置き、何を目標(Goal)としていらっしゃるかは重要で、そのうえでどういった方向に治療の嗜好性(Preference)があり、どこに責任(Responsibility)を持つのかを十分に話し合い、それらを通して、共同して(Shared)治療方針を組み立てる(Decision Making)のです。

特に「こころ」は目には見えない存在のため、精神医学は不確実性から本質的に逃れることはできず、また当然ですが「こころ」は他の誰でもない患者さん自身のものであるため、治療の嗜好性(Preference)はより重要性を帯びます。

 

あなうれし

ゆくもかえるも とどもまるも

われはだいしと

ふたりづれなり

 

真言宗の同行二人(どうぎょうににん)の御詠歌です。

真言宗には、お遍路という、四国八十八箇所の真言宗のお寺を巡礼する旅があります。

全長1400㎞にも及ぶ壮大な巡礼で、現代でも真言宗徒に限らず毎年多くの人(10万人以上とのことです)が白装束、笠を身にまとい、杖をつきながら歩かれています。

そのお遍路中、一人で旅していても、実はもう一人そばにいますというのが同行二人で、その方とは真言宗の開祖である空海=弘法大師です。

一人で旅していると、時には苦しかったり、時には寂しかったりする、それでも横にお大師様がついておられるから安心である、という歌なのです。

 

患者さんの人生=旅は、当然ながら患者さん自身しか歩めません。

私たち治療者、援助者も、お大師様とは比べるべくもなく、非力な存在です。

しかし、それでも何か援助できればと思います。

 

 

(次回に続きます)